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Linehardtさんより、応援のコメントを戴きました。
電波男でも取り上げられたニーチェの一節のパロディのようです。



ニーチェ 『ツァラトゥストラはかく語りき』より
覚悟氏の不屈の精神に捧ぐ


私はあなたがたに喪男の三段の変化を語ろう。いかに喪男が駱駝となり、獅子となり、最後に子供となるかを。

畏敬の念を備えた、強くて、忍耐強い喪男の精神にとっては、世の女とDQNからの多くの嘲笑が存在する。その嘲笑の強さが、恋愛を、もっとも重い恋愛を求めるのだ。

何が最も重い恋愛か、喪男たちよ?と忍耐強い精神は問う。私はそれをみずからに引き受け、自分の強さを喜びたいのだ、と。

最も重い恋愛とは、孤独の樫の実をかじり、克己の草の根を口にして、真の愛のためには魂の飢えにも耐えることであろうか。

しかし、この上もなく孤独な砂漠の中で、第二の変化が起こる。喪男の精神はここで獅子となる。彼はモラルをわがものとし、自分の砂漠の支配者になろうとする。自分を支配する最期の者を、彼はここで、自分のために捜し出す。精神は喪男の最後の支配者、恋愛を相手取り、この巨大な龍と勝利をかけて闘おうとする。

精神がもはや愛とも恋とも呼ぼうとしないこの巨大な龍とは何か。その名は「汝なすべし」。それに対して、獅子の精神は「われ欲す」と言う。

龍は言う。「すべての恋愛はすでに創造されてしまっており、その全ての価値―それは私だ。じつのところ、もはや、『われ欲す』など存在してはならないのだ!」

新しい恋愛を創造する―それは獅子にもまだ出来ることではない。だが、新しい恋愛のために今までの恋愛を放棄すること―これは獅子の力でも出来ることだ。自由を創造し、恋愛に対してさえも聖なる否を言うこと、わが喪男たちよ、そのためにこそ獅子が必要なのだ。

しかし言ってみよ、わが喪男たち。獅子にさえなしえぬことが、子供になしうるのか?どうして強奪する獅子が、さらに萌える子供にならねばならないのか?子供は無垢であり、忘却である。新しい始まりであり、遊びである。自らまわる車輪であり、聖なる肯定である。

そうなのだ、わが喪男たちよ。創造の遊びのためには、聖なる肯定が必要なのだ。精神はここで、自分自身の恋愛を意思するようになる。恋愛を喪失していた者が、自分の恋愛を獲得するのだ。
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まとめ






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