
これは、有無を言わせない恐るべき証拠ですね。
でも日本女は、自分の都合悪い事無視するでしょうね。

明るみになっていないレイプ件数、というのもあれば
明るみになっていない胎児屠殺、
明るみになっていない虐待というのも勿論あるでしょうねえ
世間の女性の方々の鼻面にどんとぶちかまして
やりたいもんです

ホント怖いですね。
疑わしいことがあったら、児童相談所や警察(所轄の警察署の電話だと抵抗が薄いかと)にすぐに相談した方がよいですよ。
現行犯を目撃しなくても、床になにかを叩きつけている音とか、ものすごい泣き声とか、なにかおかしなと思ったらすぐに。

・昔 人格者・一人前だから恋愛・結婚できる。(これも微妙ですが)
・今 恋愛・結婚できれば人格者・一人前。
見事に摩り替わってるのが現状でしょう。というか、他に取りえがない人間が喪にえばるために意図的に摩り替えているというべきでしょうか。本気で言ってるとしたら彼ら・彼女らの頭があまりにも可哀想ですし。
100歩譲って「モテるには性格が良くなければならない」というのが事実だとしても、厳密には「モテるには(女性様から見た)性格が良くなければならない」なんですよね。

中年の小生としては、「だから今時の若い母親は!」といってしまいそうになりますが、
実勢としては、件数増加のかなりの部分は
『親の権威・教育権』にかくれていた実態が
虐待として検出される閾値が下がってきたことの効果かと思います。
人格的な評価のありかたはどうよ?といったときに
人口比として「異性交際に”ひどく不適ではなく”子供を虐待しない」層が主流で
「異性交際に適している」と「人格に問題があり子供を虐待する」を
等号でリンクしてしまうのはムリがあるように思います。
本来、層別面で接点のない
「容姿に問題がなく異性交際に適するが人格に問題があり子供を虐待する」層と
「容姿が原因で人格に問題がありと見做されて異性交際に適さない」層の間であえて優劣を論じる意味は?

人格の善悪と恋愛出来る出来ないはまったくの無関係である。
ただそれだけです。
善人でも顔が悪ければ恋愛できないし、その逆も然り。
もちろん恋愛できないから性格が良いわけでもなく、
不細工で性格の悪い奴も居る。
恋愛できることと人格の善悪をリンクしたがる人への反論です。
私はこの二つの要素は関連性の無い別次元の要素と思っていますので。
つまりモテたければ善人になれというのはまったくの嘘であると言う事です。
悪人になろうが善人になろうがモテない奴はモテない。
悪人だろうが善人だろうがモテる奴はモテる。
その善悪と関係の無い別の要素にこそモテるモテないの真実があると。

モテるモテないはまず男女の人口比に問題があると思います。
「命の役割」女性は果たせ(その1から6)
http://blog.goo.ne.jp/grk39587/m/200610/1

しかし、喪男として中絶に“反対”するのはどうなのでしょう。
私なりに功利的に考えてみました。
まず、教化・宣伝・指導ごときでDQNどもが繁殖活動をやめるとは思わないので、中絶を抑止できる政策は“法律による厳罰化”のみです。
そうすると、DQNどもは自分の遺伝的コピーを、“中絶しない分だけ”以前よりさらに多く生産するようになります。
なぜなら、中絶を禁止することはできても、さすがにセックスまでは法規制できず、しかも倫理的な教化・宣伝・指導は彼ら&彼女らに対して無力だからです。
中絶を禁止しようが、しまいが彼ら&彼女らのセックス回数は変わらないと思われます。
結果として、DQNの血を受け継いだ子どもが年間30万人“多く”生産されることとなります。
『氏か育ちか』論争は未だに決着がついていませんが、DQNから生まれ(氏)、DQNに育てられる(育ち)子どもは、ほぼ間違いなくDQNとなるでしょう。
つまり、中絶を“禁止”することによって、喪男の敵が十万単位で増加するのです。
さらにいえば、DQNのつがいから、極々稀に純情無垢な子どもが運よく(運悪く?)遺伝子プールの悪戯によって生まれてきたとしても、その子どもたちは、自分たちの命を法が禁じてさえいなければ子宮の中にいる間に抹殺しようとしていた鬼畜親に養育されることになります。
したがって、幼児虐待も激増します。
そして、無責任なDQNによって廃棄された余分な子どもたちは、養護施設に送られ、国庫を食い潰します。
ですから、私は、なぜブログ主が中絶に反対なのかが分からないのです。
倫理的な意味以外では喪男に利する行為ではありません。
DQNが自ら未来のDQN予備軍、将来の性病運搬者、次世代のイジメ実行犯、幼児虐待の次期被害者を、腹の中で始末してくれる行為になぜ反対するのですか。

得か損かだけを考えて生きるなら、そもそも喪男なんてやってません。
丁度テレビでラストサムライという映画がやっていましたが、
彼らは損か得かを考えた結果、死んでいったのでしょうか?
それとも損得が分からない馬鹿だったからでしょうか?
答えは「気に入らない物を(命を賭しても)断固として拒みたかった」からです。
私の生き方は、単に結果としてなってしまったというだけで
終わるものではなく、ある種の思想、信条に基づいたものです。
ある面では損得で動いたりもするし、損得を超越して譲れないものもあります。
それは最終的に感情論になりますので、幾らやっても水掛け論でしょうね。