今週の
「最強伝説黒沢」は非常に感慨深い内容でした。
要約すると、
ホームレスを金属バットで襲撃していた若者達
(DQN)を黒沢が撃退するという内容なのですが、
これは
現代人が忘れたものを的確に示唆していると感じました。
ホームレス達を金属バットで襲撃したDQN達は
それを止めに入った黒沢にも殴りかかりましたが、
腕力に勝る黒沢に逆にバットを奪われます。
形勢が逆転した途端、DQN達は急に理論理屈をこねくり回して
ホームレスに暴力を振るうことを正当化しようとし始めます。やれ税金を払っていない、やれ汚い・・・
それに対してに黒沢の返答がこれです。
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それ以上ぬかすと、おまえらが最低よっ!
言い過ぎ、やり過ぎ!
冒すことになる、人間の尊厳!
禁じ手っ!
ほとんど唯一・・・・・・それだけがこの世の禁じ手!
人間は人間を・・・何があろうと、踏みにじっちゃダメ・・・!
そりゃあおまえらはバカだから・・・人を軽んじたり・・・甘くみたり・・・
要するに見下す・・・・・・!なんの検証もなく・・・あっさり人を見下す!
いや、実は・・・・・・それはおまえらに限らない
けっこう誰でもしてる・・・それくらいは・・・・・・・・心の中で!
が・・・・・・止まれ!
そこでとまれ・・・!限界だそこが!
その先・・・人を虫けら扱いしたら・・・・・・アウト!
それをやったら・・・やられたほうは決起!
奮い立つしかなくなる!************************************************
この言葉を言い終わったあとに黒沢は凄みの効いた目で
DQNを睨みつけますが、逆切れしたDQNが黒沢に
襲い掛かりますが、逆に打ちのめされてしまいます。
黒沢が言った事は「やったらやり返される」という単純な事です。
そしてそれが理解できずに他人の領海を安易に
侵すことを愚かだと説いたのでしょう。、
最近の若者・・・特に
女性を見ていると感じるのですが、
他人を平気で傷つける割には自分がその報復を受ける
可能性があるという思考が完全に欠落しているのです。他人を理不尽に傷つけても、
逆に他人に傷つけられる事は想像できない自分だけは何をしてもどう振舞っても報復を受けない。
そういった
根拠のない自己中心的な自信を持っているように感じます。
幾ら法律があるとはいえ、所詮人間は感情で動く存在です。
心を、アイデンティティを完膚なきまでに奪われれば、
己の未来すら捨てた暴挙(報復)にでても不思議はありません。そして人間は例えば強力な凶器と相手を殺す覚悟を持っていれば
Mrオクレのような貧弱な人間が
ボブサップを殺す事だって可能なのです。
つまり、見た目が弱そうだから報復はされないなどという勝手な思い込みは
気休めにも何にもなりません、単なる油断と言っていいでしょう。
人の尊厳を踏みにじる行為には必ず
「報復」を受けるリスクが
隠されていて、それは時に己の命を落とすことにも繋がりかねない。
そんなリスクを犯してまで人を侮蔑する事に価値があるのでしょうか?
騎士道だか武士道だかの格言でこんな言葉があります。
「剣を抜くものは、己もまた剣によって倒される事を覚悟すべきである」如何なる理由があろうとも他人を傷つけるならば、
相手の報復の刃を受けて自分が傷つく覚悟を
持たねば卑怯であるという思想です。
これは私も常々意識している事で、たとえ大義名分を持って
「DQNを打ち倒す」という理由の元に(暴力、言論を問わず)
力の行使を
行うとしても、己もまた
力の行使による報復で打ち倒される覚悟を
持つべきと自分に言い聞かせています。
そういう覚悟のないものが、ましてや
利己的な欲望で
他人を傷つけている奴がいざ相手からの逆襲を受けたら
命乞いやら、「暴力イクナイ」などと詭弁を駆使して
逃げだそうとする様ほど醜いものはありませんからね。同じような事を
「甲虫王者ムシキング」の第五話でも感じました。
巨大な樹木の上に村落を築き、その果実を糧として生活している
とある村では葉を食べるアゲハの幼虫は
害虫として皆殺しにされます。
それを不憫に思った愛虫家のグルムという男は村を捨て、
生き残ったアゲハを別の森に移してやって、
そこでアゲハ達と共に過ごしていたのでした。
しかし、それに感づいた村人達は害虫であるアゲハを殲滅する為に
グルムの家を襲撃し、彼が我が子のように大切に育てたアゲハを虐殺します。
グルムが血涙を流して泣き叫びアゲハの命乞いをするのを
怒号で一喝し、侮蔑の言葉と共に容赦なく焼き払い叩き潰していきました。
グルムはその絶望と怒りから、闇の住人としての潜在能力を発現させ、
凶暴な巨大甲虫を召喚して、
アゲハの敵を討つために村人を襲います。
すると情けない事に、今度はその村人は
命乞いを始めるのです。
その様が
非常に無様で情けなくて、やるせない気持ちに襲われました。勘違い無きように言いますが、アゲハを駆除しようとするのは
村の糧を守ろうとする仕方のない面があり、
いわゆる
害虫駆除と同じようなものです。
一方的な人間のエゴではありますが、同胞を守ろうとする意志も
介在した行為であり、
一概に責められる行為ではありません。
(もっとも、皆殺しなどという野蛮な方法ではなく、移住させたり
間引き程度に留めるという妥協案を考えなかったのは村人の落ち度です)しかしながら、それはやはり
「剣を抜く者の覚悟」をもって
行うべきだったと私は思います。
いざ力関係が逆転し、自分が
「殺される側」にまわった途端、
恥も外聞もなく命乞いをする。
そこには
人間としての尊厳も誇りも感じることは出来ません。
村の村長は最後まで命乞いをせず、逃げる事もせずに
果敢にグルムと巨大甲虫に戦いを挑み敗れます。
その姿勢には
「剣を抜く者の覚悟」を感じ取れたのが幸いでしょうか・・・
己がエゴを通す為、理不尽な欲望を通す為剣を抜くとしても
せめて
「報復で打ち倒される覚悟」を持って剣を抜くのが
人間としての最低限の誇りだろうと思うのです。
そして多くのモテナイ男を批判する人間達からは
この
「剣を抜く者の覚悟」が感じられないように思うのです。