本田透著の
「喪男の哲学史」を読みました。
内容としては、難しく捉えられがちな哲学を簡単にかいつまみ、
哲学の勃興から衰退までを分かり易く説明していました。
喪男的なネタ解釈も結構あったものの、比較的素直な本かなあと。
ただ、一点気になったのが
「ナチス」や
「キリスト教」を例として、
喪男の集団化、組織化を過剰とも取れるほど危惧していた点です。
(この本の中で語られている喪男は厳密な意味での喪男ではなく、
世の中に順応できないいじめられっ子系を指していると思われるが)要は喪男が集団化して権力を手にすると暴走するから徒党を組むなという話。
私はこの部分を見て少し嫌な予感がしました。
こういった部分を過剰解釈する人がでるんじゃないかなぁと。
で、実際に過剰解釈してしまっている人の感想がこちら。
http://mazoero.hp.infoseek.co.jp/philosophia.html基本的には良い書評であるとは思うのですが・・・
喪男(社会的マイノリティ)の組織化を
極端に否定している点は頂けない。
氏は確かに
"過剰な組織化"を否定してますが、同書内でこんな事も書いています。
「集団化がダメとはいっても、瞑想している間に首を刎ねられたら
お終いですから、身の安全が保障されるぐらいには(集団化は)必要」と。
そう、つまり本田氏が否定しているのは
喪男が集団化して
「国家転覆」や「世界征服」を狙う事であって、弾圧や迫害などから
身を守るための「防衛のための集団化」は認めているのです。もっと身近な話で言うと、喪男が集団化、組織化することによって
現在のイケメンとキモメンの美的基準を90度逆転させたりなどの、
「喪男のモテ化」を狙う事はダメであっても、
「喪男なんてキモイんだよ、侮蔑差別されて当然」などという
クソアマやDQN達から自分達の人権を守るために必要な
集団化、組織化は許容範囲内だという事です。
この点をスルーして、馬鹿の一つ覚えのように「集団化は悪い」
「組織化は悪い」等と上っ面の理想論を語るのは片手落ちです。そして何より、モテ側(強者の側)が一方的に社会を支配した世の中は
喪男思想が支配した世の中より幸せだったのだろうかと。
資本主義勃興直後のイギリスがそれに近い状況だったと思われますが、
あまりにも貧富の差が激しすぎて、地獄にも似たような状況でしたよね。
結局、喪男側にしろモテ側にしろ一方が圧倒しすぎると歪な社会になるのです。私個人として、喪男側とモテ側の関係で最も好ましいと考えるのは、
かつてのソ連とアメリカのような
「拮抗した武力による冷戦状態」です。
アメリカはソ連が大嫌いだが、ヘタに手を出したら自分も大怪我するので手が出せない。
ソ連もアメリカが大嫌いだが、自分と同じぐらい強いのでにらみ合うしか無い。
こういった
「力による拮抗」によってもたらされる安全が最も好ましいのではと。
実際は、喪男がモテと対等の力をつけるに至るのは難しいし、
喪男側が完全に統一された組織を結成するのも困難。
でも、小規模な喪男集団が各団体ごとで独自にモテ側を
突っつきまわす事で、ある程度の牽制効果はあると考えます。
だから私は喪男が喪男として何のリスクもなく生きられる社会となるまで、
ある程度の集団化、組織化はやむを得ないと思うし、当然の流れだと思います。そもそも、ナチスドイツにしろ、彼らが喪男的思想を元に過剰な組織化
集団化へと走ったのは第一次世界大戦戦勝国が調子に乗って、
ドイツから尻の毛まで毟るような暴挙を行ったからです。
結果としてドイツはヨーロッパの中でも随一の武闘派国家となり、周囲を席巻した。
イジメっ子が度を越したイジメをして、いじめられっ子に逆に刺されたようなもの。彼らは
「暴走せざるを得ないほどに追い詰められていた」のです。
それを
「喪男側(いじめられっ子側)だけの罪」と切り捨てるべきではない。
本当に無慈悲で本当に悪辣なのは、彼らをそこまでの状況までに追い詰めて、
尚且つ相手がキレて手に負えなくなったら今度は被害者面してる奴らでは?
はっきり言って、そんな奴らは自業自得だし同情する気はさらさらありません。
つーか、ザマーミロって感じですか。
※追記※侵略のための集団化、武装化を認めないが自衛のそれは認めるという点で、
「墨子」の思想は喪男に合うかもなぁと感じ、最近勉強しています。
彼らの思想は芸術的なものに厳しい側面がありますが、中々面白いです。
単純に平等や平和を訴えるだけでなく、武力も併せ持って、
大国が小国を侵略しようとしている時に、武装集団を派遣して侵略を邪魔する
という彼らのスタイルには、色々と共感させられたりします。
私も喪男としての行き方、喪男としての人権を墨守したいと思います。